我が青春の地、いわき湯本温泉の紹介、

我が青春の地、福島県いわき湯本は地域でも珍しい温泉地で、其の温泉に因んだ特色や歴史などを紹介します、

平成日本紀行(198) 与謝野 「与謝野と与謝野氏」

希望に満ちて旅行することは、目的地にたどり着くことより良いことである。」(スティーブンソン)




平成日本紀行(198) 与謝野 「与謝野氏」   .



城崎温泉の宿(国民宿舎玄武洞)がちょうど円山川沿いにあったので、そのまま南下して一旦、豊岡の町に出る。
豊岡市は2005年4月1日に、周辺の城崎町竹野町日高町出石町但東町対等合併し、兵庫県で面積が一番大きい市となったようである。 


豊岡市は、古くから旧国名である但馬国の中心として形成され、奈良期の頃には既に但馬の国の政庁が開かれていた。 
741年(天平13年)に聖武天皇により国分寺の建立の詔令が出され、但馬国分寺、国分尼寺豊岡市日高町)が建立され、同・804年(延暦23年)には但馬国国府が同所に開かれている。


市街地を正面に見ながら、円山川を渡って久美浜、峰山方面に向かう。 
既にこの辺りは京都府である。  
宮津線久美浜駅前から国道312線になり、新道の比冶山峠を越えると「峰山」である。

峰山は、絹織物「丹後ちりめん」の発祥の地であり、最近では全国高校野球の京都代表で、田舎の府立(京都)高校・峰山高校が甲子園で活躍したことは記憶に新しい。 

あの「楽天ゴールデンイーグルス」の野村監督(当時)の出身高校でもある。
尚、峰山は2004年4月1日に周辺の5町と合併し「京丹後市」となっている。



丹後の国」、天橋立の北側へ向かう。
国道312は野田川、岩滝町あたりで国道178に再び合流し、道程はR178となって宮津湾の西側へ向かうことになる。 

この辺りは京都府北部の丹後半島中部から付け根にあたる地域は与謝郡に属し、2006年3月1日、与謝郡の加悦町・岩滝町・野田川町三町が新設合併して与謝野町(よさのちょう)が誕生するという。 


与謝野町は与謝野 鉄幹(本名寛、父・与謝野礼厳が当地の出身地)に縁のある地柄である。父の礼厳(1823‐1898・幕末から明治の僧、歌人)の時代に、元は細見という俗名であったが明治初期、自分の故郷の与謝野という字を当てて「与謝野」と称し、その名が付いたとも言われる。



それにしても平成の大合併のこの時期、それらに従って古(いにしえ)の懐かしい町村名が消えたり、はたまた可笑しな瑞祥的(おめでたい・・?)市町村名が付けられたりしている昨今、「与謝野」という地名は真に小気味のいい、響きのある町名である。


与謝野 鉄幹は(明治6~昭和10)、京都府岡崎(現・京都市左京区)に僧侶・与謝野礼厳の四男として生まれてる。その父・礼厳は庄屋・細見家の次男として京都府与謝郡(現在の与謝野町字温江)の出身という。 

歌人・詩人として明治中期、日本文学界に相当の足跡を残したらしく石川啄木北原白秋、登山川美子らを育成、浪漫主義運動を展開した功績は大きいといわれる。 

後に妻となる晶子も「みだれ髪」、「源氏物語」の現代語訳をはじめ、後年は歌人として夫婦で全国各地を巡り、多数の歌を残し歌碑や記念碑は無数にある。 


因みに現、与謝野 馨(よさの かおる:現在、金融、経済財政政策、規制改革担当相)は、昭和後期から平成期の政治家・衆議院議員・行政閣僚として活躍中で、歌人与謝野鉄幹・晶子夫妻の孫にあたる。


次回は、「宮津