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平成日本紀行

日本一周の旅の記録を、各地ごとにまとめ記載しています、

平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」


平成日本紀行(176) 萩 「村田清風」   、





城址と指月山公園



「 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
         釈迦や孔子も かくやあるらん
 」 清風

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。

その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 
これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 


因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。

尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 
しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 
この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。


清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 
以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。

彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、

『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
          釈迦や孔子も かくやあるらん
 』

その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。
そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。


この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 

財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 
倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 
こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。


しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 
その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。 

彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 
後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 

この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 
藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。

明倫館(めいりんかん)は、水戸藩弘道館岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 

1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。 
萩・明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。1919年、国指定史跡を受けている



城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 

気が付けば「」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。 

町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 
1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 
薩摩藩水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。


2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。


次回は、「益田」