我が青春の地、いわき湯本温泉の紹介、

我が青春の地、福島県いわき湯本は地域でも珍しい温泉地で、其の温泉に因んだ特色や歴史などを紹介します、

新・日本紀行(116)壱岐・対馬 「大陸文明中継地」(Ⅰ) 


九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)



『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




  新・日本紀行(116)壱岐対馬 「大陸文明中継地」(Ⅰ)  ,






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対馬の海岸風景



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壱岐対馬は日本の弥生文化を広めた中継基地であった・・、

平戸は平戸島のことで、架橋で渡れる九州本土とは接近している島であり、近代日本の先駆けの島であった。
一方、同じ長崎県に属するが本土から20kmも離れた「壱岐」が在り、更に130kmも離れて対馬列島が浮かぶ。 
何れの島も歴史的には「古事記」にも記載されるような興味深い所などで、序ながら両島のことについて少々述べたい。



壱岐対馬は日本海・玄界灘に浮かぶ島で、今は壱岐市対馬市となり長崎県の行政区分である。
古事記の冒頭に国生みの話が出てくる、「次に壱岐を生み、次に対馬を生みき・・」とあり、神代の時代から認識されていたらしい。

日本の農耕稲作文化を弥生式文化といい、この時期に日本の国、国名である「倭国」が出来ている。
倭国という国名は、中国(三国時代・魏、蜀、呉の時代)が付けたのか、日本人が付けたのか詳細は不明であるが、中国人が日本人を呼ぶときに「倭人」と呼んでいて、倭人の国だから倭国と称していたことは当時の「魏志倭人伝」にも記されている。 
日本では、その後「倭」は「和」に通じ、やがて「大和の国」を成立させている。 

この時期に朝鮮半島から鉄器が到来して、鉄器時代を迎え、国土が出来上がる。 
以前の土・石の時代を「縄文文化時代」と称したのに対し、鉄器の来入、鉄器の時代を一般に「弥生式文化」と呼んでいる。 
魏志倭人伝」の中には、鉄が日本に伝わる状況が詳しく記されているという。
この時期の鉄というのは、鉄の原材料である砂鉄、もしくは鉄を荒加工したものと言われる。


壱岐対馬
は日本の弥生文化を広めた中継基地であった。 ただ、壱岐対馬は地形的に全く異なるという。
壱岐は平地多くして水が豊富であるが、一方、対馬は「土地は山険しく、深い森が多く、良田無し」とまで魏志倭人伝にも記されている。 

壱岐からは、往時の鉄器と思われる多数の遺跡が発掘されている、対馬にはそれが無い。 
地理的に見ると対馬のほうが朝鮮に極めて近く、尚且つ、国土も広いが、地形がそれを拒んだと見るべきであろう。 

壱岐の農耕文化に対し、対馬は「良田無く、海物を食って自活せり・・」とも魏志倭人伝が言っている通り海洋漁民文化であり、長崎沖の日本海に浮かぶ同じ島国でありながら、全く異なる相違性を示しているのは面白い。 

因みに、長崎県自体丘陵、山域の地で平野が少ない。同様に長崎市にいたっても三方を山に囲まれ、市街自体も坂の町である。干拓で有名な諫早地域が最も広い平地を持つともいう。
壱岐は島としては珍らしく、島全体が諫早に次ぐ平地を抱えて農地化されているという。


中国では6~7世紀、三国時代から隋、唐へと移り、朝鮮半島では百済新羅高句麗の時代であった。
新興国・唐は領土拡大・覇権のために他民族の諸国を侵略し出した。朝鮮半島にも進出しようとしたが、高句麗百済が抵抗して簡単には行かず、そのため唐は新羅と同盟した。
その連合軍の攻撃によって百済は攻め滅ぼされたのである。

百済は当時親交のあった倭国(日本)へ救済を求め、倭国・日本は同意して朝鮮へ上陸し、連合して戦った。(白村江・はくすきにえの戦い)しかし、百済・日本連合軍は水上決戦で唐・新羅軍に大敗を喫し、半島からの完全な撤退を余儀なくされた。

そして唐・新羅の本土侵攻に脅威を感じた日本は、対馬壱岐及び筑紫に防人(さきもり)と(のろし)を置いた。

対馬は元より「自給自足」の出来ない国であり、古来、歴史を通して本土や朝鮮から食料を仰ぐことが重要な要素になっていた(今の日本に似ている・・?)。 
下って8世紀頃、九州統括の「大宰府」は対馬に食料を送る官船を出していた。
これは、防人という余人が多数やって来たので、当然食糧難になり「対馬、食料船」を用意したのである。

鎌倉期になって元寇の博多攻めの時、蒙古の一部船団が対馬へ寄港した。 
前もって幕府より蒙古襲来の危機の通報を受けていた対馬では、地頭職・守備団を結成し、僅か100名足らずで待機していたが、千人余の蒙古将兵によって瞬時に壊滅された。 
元より蒙古軍は一時停泊で、休息後は博多へ向かうはずだったらしいが、武士団は当時の世の習いに従って、少数ながら敵陣に突っ込み、武士の一分を果たしたまでであったというが。


次回、壱岐対馬 「大陸文明中継地」(Ⅱ)

  
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