平成日本紀行

日本一周の旅の記録を、各地ごとにまとめ記載しています、

平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(2)



平成日本紀行(176) 萩 「吉田松陰」(2)   、




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吉田松陰





旅の記録;「日本一周」へリンクします

松下村塾」は、叔父・玉木文乃進が創設し、吉田松陰に引き継がれる・・、

吉田松蔭は東北見聞旅行の前に、三浦半島浦賀久里浜を探索している。 
松蔭は、浦賀三浦半島の顎(あご)、江戸を心臓にたとえると「のど元」に当たる海運の要地であり、江戸末期になって時折外国船が往来、来航してくる理由が判ったのである。

そして2年後、嘉永6(1853年)年6月3日(新暦1853年7月8日)、浦賀沖に日本人が初めて見た米艦隊四隻がやってきたのである。 

それらは、これまで日本付近に訪来していたロシアや英国の帆船とは全く違うものであり、黒塗りの船体の外輪船は石炭による蒸気エネルギーで航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていた。 
その様子から、日本人は「黒船」と呼んだのである。


「黒船」とはアメリカ合衆国海軍・東インド艦隊のことで、日本の江戸湾浦賀に来航し、マシュー・ペリー提督によって米大統領国書が江戸幕府に渡され、日米和親条約締結を迫っている船団のことで、日本では一般に、この事件以降から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。 
この異変を聞いた松陰は、直ちに現場に向った。 
鉄砲州(東京中央区の港)から品川、川、保土ヶ谷を経て、金沢(横浜)から浦賀に到着している。


松蔭は観察していた・・、 
「艦船の間隔は、其々5町(550m)4隻のうち2隻は蒸気船。船の長さは30間(55m)、1隻には12、もう1隻には20もの砲門が見える。 残る2隻は快速帆船で長さ35間(65m)、計26門もの砲を備えている。 みなひっそりとしており、時折、時を告げる砲声が聞こえるのみである 」と、その内、1隻の蒸気船が江戸へ向って航行し始めた。

見物人がワアワア言って船を追う、船は途中で停泊し、水深の測量などを始めたのであった。監視に当たっていた会津藩の船が、止めるようと警告したが全く聞く耳を持たず、他藩の船も蒸気船をグルグルと回るだけでだった。
松蔭はこの時、「こうなることは、判っていたはずではないか・・!!」と、怒りをあらわにしている。



この年の9月、松蔭は鎌倉の「瑞泉寺」を訪れている。 
住職である「竹院」は松蔭の伯父にあたり、最も尊敬する禅僧であった。(松蔭と瑞泉寺については、鎌倉の項にも記載) 
竹院が見るところ、この日の甥御は、どこか様子がおかしかったという。

松蔭は話を切り出した・・、
聞いていて竹院は驚愕した。 
長崎に停泊しているロシア船に乗込み、海外に留学すると言うのである。 
竹院はこれを「貴」とした。そして、路銀の足しにとして金3両を渡した。 この計画は江戸の先輩友人には打ち明けたが、実家の兄・杉梅太郎や玉木文乃進には秘密にした。


ここで、玉木文乃進の事・・、
松陰の叔父であり若き松蔭を教育した人である。 
その教育が凄まじく鉄拳制裁は普通であり、あまりの凄さに松蔭の母・「滝」はその指導を見かねて松蔭に対し、「死んだほうが楽になるから死んでおしまい」と諭す。 
こうなると文乃進ならずとも松蔭の母も凄い。 

松下村塾は、この玉木文乃進が創設し吉田松陰に引き継がれる。 
興味深いのは、この玉木文乃進は明治の聖将・乃木希典(のぎまれすけ)の若き頃を教育した人でもある。 
吉田松陰乃木希典に共通する点は高い教養と強靭な精神力であろう。 
文乃進は萩の乱で、血縁が関与した事で割腹自殺している。 
その時、介錯したのは松蔭の姉であったというから、これまた凄い・・!。 
教育する人は、自分に厳しく律するという事であろう・・?、現代日本の教育者はいかに・・?。 

因みに、萩の乱は、1876年(明治9)に萩で起こった明治政府に対する士族達による反乱の一つである。
また乃木希典(のぎまれすけ)は1849年、現在の東京都港区に長州藩(現・山口県)の支藩である長府藩藩士として生まれている。 

現在、六本木ヒルズになっている長府藩上屋敷が生誕の地であり、後年、学習院院長として皇族子弟の教育に従事、昭和天皇も厳しく躾けられたという。 
希典も1912年の明治天皇大葬(国葬)のおり、天皇に殉じて9月13日夜、妻・静子とともに自刃している。



松蔭は10月には長崎へ発ち、末には入っている。 
だが、あろうことか、長崎のプチャーチン艦隊は既に出航した後だった。 
長崎を引き返した松蔭は再び江戸を目指した。

松蔭は、思うのである。
『 元禄に見る江戸期が永すぎた。 太平の世が久しく、「いくさに備えよ」ときつく云われても、目前の安楽を貪る(むさぼる)風習は変わっていない。もし幕府が外国船の打ち払い令の復活などを言い出せば、大将から足軽までみな初陣である。 たとえ天才であっても、事に望んではあわてふためき自分を失い、「無能の将、未熟な兵卒」として、誹られることになりかねない 』、と苦笑するのみであった。 

松蔭の死後間もなく、この予言は的中するのであるが、現代の日本国状にも通じるものがあろう・・?。 
その後の安政元年(1854年)1月、米国のペリー艦隊は、前回の倍近い7隻を率いて再び浦賀に現れる。 
艦隊は江戸湾深く横浜沖まで移動し、幕府側と本格的な交渉を開始した。 

その後、「日米和親条約」を締結したペリー提督は、下田に回航し、条約をどのように実施していくかの具体的な事項の交渉をしていた。 
その最中、吉田松陰の密航事件が発生するのである。


吉田松陰に関しては、関厚夫氏執筆の「ひとすじの蛍火──吉田松陰」(産経新聞)を参考にしております。】


次回も更に「吉田松蔭

  
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