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平成日本紀行

日本一周の旅の記録を、各地ごとにまとめ記載しています、

新・日本紀行(124)島原 「島原の乱」 

長崎県


.九州地方の皆さん、此の度の大震災に謹んでお見舞い申し上げます。
(この記事は震災以前のものです)





『九州紀行』は以下にも記載してます(主に写真主体)
九州紀行」; http://orimasa2009.web.fc2.com/kyusyu.htm
九州紀行」; http://sky.geocities.jp/orimasa2010/




   新・日本紀行(124)島原 「島原の乱」     、





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島原・原城址



「日本一周の旅の記録」へリンクします
 

「島原の人間はよく生きている」と周囲で囁かれていた。 それは・・

帰路、島原F・T(フェリーターミナル)へ立ち寄り、熊本渡航の確認と乗船券を確保した。1時間以上の時間余裕があるので島原城へ向かってみた。

先ず、島原については、「島原の乱」を想像してしまう。 其れは江戸期の初期に起こった日本の歴史上最大規模の一揆であり、江戸期から幕末までに起きた最後の最大の本格的な内戦であったのです。


城下町としての島原の歴史は有馬氏(戦国時代に有馬晴純が現われて島原半島を根拠に肥前一帯に一大勢力を広げる)などの群雄割拠の時代を経て、徳川時代の元和4年(1618)から7年の歳月をかけ松倉重政島原城を築城したときに始まる。

松倉氏は越中富山県)の出身で、豊臣秀吉の家臣・筒井順慶の家老職だった。
江戸初期の島原築城以後は、島原藩の城下町として栄えるが、しかし、松倉家はキリシタン弾圧をはじめとする悪政を続け、1637年(寛永14年)に「島原の乱」が起こる。 

これにより住民はほとんど死亡し、代わって藩を統治したのは高力忠房(こうりき ただふさ:徳川家の譜代中の譜代で、家康三河時代の三奉行の家系)であった。 
忠房は、三代将軍・徳川家光から島原の乱後の肥前国島原藩4万石へ移封された。

このとき家光は忠房を厚く信任していたため、あえて乱後で荒廃している島原へ移封させて復興に努めさせ、更に長崎の警備や九州における外様大名の監視も任せたと言われている。 
忠房は家光の期待に応え、乱後で混乱していた島原の農民に対して1年間の年貢免除、浪人らの移民奨励などの良策を重ねて島原を見事に復興させている。


天草・島原の乱・・、  
元和2年(1616)、大和・五条から松倉重政が4万石の大名として日之江城に入城した。
重政は元和4年(1618)有馬氏の家臣・島原氏の居城であった森岳城跡に新たな城の築城にかかる。
着工人員延べ100万人といわれる人夫を動員し、4万石の小身分でありながら分不相応な大城を築く。

当然、築城、各種土木工事で費用が必要となり、重政は住民に重税を課した。又、彼は入国当初は切支丹に対して寛大であったが、幕府が切支丹禁制の意の強いことを知って、方針を一変して弾圧を強行するようになる。
その結果、領民は更にに苦境に陥った。

重政の病死の後はその子勝家が継いだ。 
この勝家は遊楽にふけって政治に不熱心だったため租税は重い上にも重くなっていった。 

更に、この年は寛永11年以来の4年も続く大凶作で領民は過酷を極め、絶望するに至った農民たちは領主を深く恨むようになり、不穏の空気が充満して一発触発の状態となっていた。 

その過酷さは近隣の人々からも「島原の人間はよく生きている」と囁かれるほどであり、巷間(こうかん:ちまた)では島原の領民が蜂起したのは当然であるとも言われる。


寛永14年(1637)限界を悟った領民は、遂に一揆を起こした。
これが世に言う「島原の乱」である。

乱は数ヶ月で終結したが、これによって島原半島の様相は一変してしまったという。
この一揆に応呼したのが天草の益田四郎であった。島原・天草の合同一揆民は益田四郎通称、天草四郎時貞)を総大将とし、その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行などといった幹部を置いて組織をしっかりと固める。
その勢力は3万7千人。

一揆に参加した農民が全て原城(別名・日暮城、島原城の築城によって廃城したものの、その当時起こった島原の乱天草四郎以下の一揆軍がたてこもった城として有名)に入ったため、島原南部と天草は人っ子一人いない廃村のようになったという。

九州の近隣雄藩である細川・鍋島両藩や幕府の懐刀と言われる板倉重昌など、幕府軍の再三の攻めにも落ちなかった一揆軍であるが遂に、将軍・家光が自ら決断を下し、腹心中の腹心である老中・松平伊豆守信綱(通称・知恵伊豆)を援軍として派遣する。 
動員する兵力は一揆軍の3倍以上の12万人の大軍になった。 

幕府軍にはたとえ女、子供でも全員殺害せよとの厳命が下っていた。 
そして大乱戦の末、一揆軍は全滅する。

乱後、島原南部と天草にはほとんど農民がいなくなってしまい、周辺各藩には強制的に人数選抜をして農民を移住させ、藩によっては籤引きで移住者を決めたところもあったという。

その後、この土地の農民は非常に優遇されたため、近隣の諸藩から逆に非合法に流入してくる者も多く、それをまた黙認したため50年後には再び豊かな農村が復興したという。 

しかもこの土地の年貢は軽減されていた上に、古いしがらみのない新しい村が構築されることになったため、日本国内では最も近代的な村が生まれたという。
明治時代、廃藩置県によって一時的に島原県が設立され県庁所在地となったが、島原県はすぐに長崎県に編入された。
その後、島原城も廃城となり破却された(1964年に復元)。


半島の中央部にある雲仙岳は大噴火を繰り返す活火山として有名であるが、1792年(寛政4年)には「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれる日本史上最悪の噴火災害が起こり現在の島原市域に大打撃を与え、1万5千人以上の死者が発生している。


次回は、「島原大変、肥後迷惑

  
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