平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」
平成日本紀行(186) 美保関 「関の五本松」 、
堺水道に架かる境水道大橋
関の五本松、「あとは伐(き)られぬ夫婦松」・・ 、
悠々とした「境水道」際を行く。
この水道は島根県と鳥取県の県境でもある。
この外海寄りに美事な橋が架かっている、「境水道大橋」である。 境港市と島根県美保関町を結ぶ大橋で長さ700m、高さ40mあり、橋下には大型船や漁船が賑やかに往来している。
外海の美保湾へ出ると、さすがに海の色が違って見える、鮮やかに濃いのである。
このまま島根半島の海岸線を行くと、鄙びた美保の港へ出た。
その手前に「五本松公園」の案内板があった・・、
かなりの急斜面の山上に在るらしく、民謡・「関の五本松」でもお馴染みである。
少し登った処に、頂上へのリフトがあり、小さな御土産屋があって夫婦で営んでいるらしく、リフトも同様に管理しているらしい。
観光客らしい人は誰も居なく、当然リフトは止まっている。
「お客さん、リフト乗るかね・・?」
「ハイ、お願いします」
近くにある電源版のスイッチを入れると、徐に(おもむろ)リフトが動き出し、御夫婦と三言、四言話を交わしてリフトに乗った。
五本松の尾根より見下ろす、長閑な「美保港」
好天に恵まれ、リフトが上昇するに従って眼下に美保の港が鮮明に浮かび上がってくる。
標高150mの丘は公園として良く整備されており、この一角に「関の五本松」の碑が有る。
碑のところには初代の黒松であろうか、太い幹が残されている。(小生が訪れたときは初代黒松の切り株は野ざらしであったが、その後小屋根が掛けられたらしい)
江戸期の頃、かつては船が航行するための目印にしたという島根半島先端にあたる「五本の松」であったという。
藩政時代に美保関(美保神社)と松江を結んでいた旧松江街道は、海を見下ろす尾根上を通り、そこにあったのが街道時代の景勝地が関の五本松であった。
港に出入りする漁船や日本海を行き交う船の目印でもあったが、或る時、松江の殿様が松江街道沿いに並んだ五本の松の一本に槍が当たり、そして眺望の邪魔になるからとして突如、伐採してしまったという。
それまで美保港へ入ろうとする多くの船の目印であった松の一本を伐られてしまったことは、当時の大事件となり、その後、民衆は「あとは伐られぬ夫婦松」と歌いながら、松江城下を練りまわり、請願のデモを行ったという。
民衆の声を聞いた殿様は、あとの四本を伐るのを中止したというのが伝説になっている。
そして、民謡になった「関の五本松」である。
「関の五本松」は、アラ エッサッサの「安来節」とともに、出雲地方の二大民謡といわれ、大正期頃には東京にも伝わり、そこから全国的に流行したという。
『関の五本松』 島根県民謡
ハアー 関の五本松 ドッコイショ
一本切りゃ四本
あとは切られぬ 夫婦松
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ
ハアー 関の女は ドッコイショ
医者より偉い
縞の財布の 脈をとる
ショコ アショコ
アショコホイノー松 ホイ
次回、「美保神社」